あなたは五月雨(さみだれ)という言葉を聞いてどんな情景をイメージしますか?ザーザー降りの雨でしょうか?それとも、しとしとと降る雨でしょうか?実は、五月雨という言葉は、季語として俳句で用いられるのです。この記事では、五月雨とはいつを表す季語なのか解説します。また、五月雨の正体を明かします。
実際に五月雨を季語に用いた俳句を5句紹介しますが、いずれも五月雨の季節の情景をありありと豊かに表現する句です。五月雨の季節を思い浮かべながら楽しんでいただければ何よりです。紹介する俳句には簡単に意味の解釈を付けますので、どんな内容が詠まれているのか分かるようになっています。
目次
五月雨とは六月の梅雨を表す夏の季語
なぜ六月なのに五月雨というのか?
五月雨は、旧暦の五月の雨を指しています。旧暦の五月は新暦では六月にあたるので、五月の雨とは梅雨の雨を表すのです。六月の雨なのに五月雨というと分かりにくく感じるかもしれません。五月雨とは梅雨の雨のことだと結び付ければ、理解しやすいのではないでしょうか?
五月雨を季語に用いる俳句は、梅雨時の景色を詠んだ句が多いです。これらの句は、いつまでも降りやまない雨や、雨の景色を表現しています。
五月雨が季語に用いられる名句は数多くあります。
なぜ六月なのに夏の季語なのか?
まず、旧暦では一月から三月が春で、四月から六月が夏です。そして秋は七月から九月で冬が十月から十二月となります。このように、六月は夏なのです。そこで六月に降る五月雨は夏の季語となります。なお、現在の夏は六月から八月となっていて、やはり六月は夏に含まれているのです。
ただし、五月雨という文字のみを見た場合、五月の雨だから春の季語なのではないか?と誤解を生むかもしれません。ここまで述べてきた通り、五月雨は六月の梅雨のことなので、夏の季語であると説明することになります。
五月雨は梅雨の雨だから夏の季語。と覚えましょう。
ビジネスでも五月雨を使う
メールの文章などで「五月雨式になりますがよろしくお願いします。」「五月雨で提出します。」と言った文言に出会ったことはありませんか?この表現は、五月雨を用いた比喩表現です。少しずつ長く降り続ける五月雨のように、書類などを細切れにして提出するときに使われます。
締切りまで期間が開いている場合に、出来たものから小出しに提出するときに多く用いられます。先方の了承が必要ですが、待たせて一度にまとめて提出するより、確認の時間を取ってもらえることが多いです。
しかしながら、五月雨が飛び交う職場は、間に合っておらず崩壊しています。
五月雨が印象的に使われている俳句5選
五月雨を あつめて早し 最上川(松尾芭蕉)
松尾芭蕉(まつおばしょう)が現在の山形県を流れる最上川を訪れた時の句です。元は<五月雨をあつめて涼し最上川>として梅雨時の最上川の涼しさを詠んでいました。しかし、芭蕉が最上川の川下りを体験した際に、あまりの激しさに句を推敲して現在の形になったと言われています。
「まるで梅雨の雨を一か所に集めたように最上川の流れの何と急なことよ」という意味の句です。この句は、芭蕉の紀行文である「おくのほそ道」に収録されています。
おくのほそ道の中でも有名な一句です。
五月雨や 青柴積める 軒下(芥川龍之介)
文豪・芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)の俳句です。「五月雨で軒下の薪が湿ってしまう」という情景を詠んでいます。青柴とは、薪のために切り出した木で、枝葉も落としていない状態の木のことです。青柴は、まだ乾燥させていないので燃えにくいのですが、五月雨に濡れることでさらに燃えにくくなってしまいます。
湿っていく薪と梅雨の雨を写実的に表現していて、面白い一句です。
写実的ながら、梅雨のわずらわしさを感じさせます。
さみだれや 大河を前に 家二軒(与謝蕪村)
画家・俳人の与謝蕪村(よさぶそん)が詠んだ句です。五月雨時に、雨が降り続けて増水している川と、寄る辺なく立っている二軒の家を対比しています。「大変な五月雨よ。水かさました川の前に家がぽつんと二軒立っている。」という意味です。増水した川に家が飲まれてしまわないか不安な様子が想像させられます。
また、立ち尽くしている家と流れる川の静と動の対比が印象的です。
情景が率直に詠まれたストレートな一句です。
橋落ちて 恋中絶えぬ 五月雨(夏目漱石)
文豪・夏目漱石(なつめそうせき)が詠んだ句です。「梅雨の長雨で、逢うことがかなわない日々。橋が落ちたことで終る恋なのか。」という意味になります。五月雨がきっかけで橋が落ちてしまい、橋を渡って会っていた二人が会えなく なってしまいました。梅雨の長雨という情景に加えて、恋仲の二人の心情を詠んでいます。
梅雨時の、しとしとと雨が降りやまない様子が思い浮かぶ 一句です。
夏目漱石は、小説を発表する一方で、多くの俳句を詠んでいます。
五月雨や 上野の山も 見飽きたり(正岡子規)
俳人正岡子規(まさおかしき)の一句です。「降り続く梅雨の中では、上野の山も見飽きてしまった。」と解釈できます。子規はこの句を病床で詠みました。毎日、梅雨のせいで景色が変わることがないことと、病床にあって同じ景色しか見られないことが混ぜ合っています。この句を詠んだ翌年、子規はこの世を去りました。
やりきれない気持ちが込められているように感じさせる句です。
自分の残りの命を儚んで変わらない景色に思いをぶつける様に切なさがあります。
さいごに
五月雨とは旧暦で六月の雨を表します。また、俳句では五月雨は夏を表す季語です。この記事では、五月雨とはどんな言葉なのかを紹介し、実際に五月雨を季語に用いた俳句を紹介しました。どの句も、梅雨の長雨と、長雨がもたらす変化を情景豊かに詠んでいて、趣深い句でした。
五月雨を使った句を鑑賞する際には、薄暗い空から雨が降り続けている様子を思い浮かべるとよいのではないでしょうか?梅雨は過ごし辛い季節ではありますが、俳句のように歌に取り込んで楽しむこともできますね。ぜひ梅雨の季節には梅雨にちなんだ文芸をたしなんでみてはいかがでしょうか?