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中日ドラゴンズで活躍したレオ・ゴメス選手を紹介!どんな選手だった?

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あなたは、元中日ドラゴンズのレオ・ゴメス選手を知っていますか?レオ・ゴメス選手は、1997年から2002年まで中日ドラゴンズに在籍した内野手です。この記事では、レオ・ゴメス選手(以下ゴメス選手)の中日ドラゴンズ(以下ドラゴンズ)での活躍ぶりを紹介します。また、ファンに愛されたゴメス選手のエピソードを紹介します。

ゴメス選手はパワーがあり、たくさんのホームランを打ちました。一方で、確実にヒットを打つこともできるテクニックも持ち合わせていました。ドラゴンズファンは、ゴメス選手に期待を込めて声援を送ります。ゴメス選手は見事に期待に応え、ドラゴンズを勝利へと導いていったのです。

ゴメス選手は、2000年前後のドラゴンズファンにとっては欠かせない選手で、まさにヒーローでした。

ゴメス選手はどんな選手?

ゴメス選手は、1966年3月2日生まれでカリブ海にあるプエルトリコの出身です。アメリカのメジャーリーグで活躍したのち、1997年に来日しドラゴンズに入団しました。ドラゴンズでは、ほぼすべての試合で4番打者として出場して攻撃の中心として活躍しました。守備では、主に三塁手として出場し堅い守りが持ち味でした。

ゴメス選手は、1997年と1999年にスポーツメディアの記者投票によるベストナイン(三塁手)に選出されています。2000年に一度ドラゴンズを退団しますが、翌年2001年には再度契約を結び、2002年までドラゴンズで活躍しました。ゴメス選手は、陽気な人柄で選手・監督・ファンから愛される選手でした。

はち

星野監督(当時)がとても頼りにしていた選手です!

ゴメス選手の活躍!

来日するまでの経歴

ゴメス選手は、高校卒業後に1985年にメジャーリーグ球団のボルチモア・オリオールズと契約します。下部リーグでは首位打者に輝くなど結果を残しました。そして、1990年、晴れてメジャー昇格を果たします。

1994年には、三塁手として守備率(守備機会に対してエラーをしなかった率).975をマークし、アメリカンリーグ2位となりました。その後、1996年にはシカゴ・カブスでプレーします。ゴメス選手は、ボルチモア・オリオールズ時代と併せ、メジャー通算7年で79本のホームランを記録しました。

中日ドラゴンズに入団・大活躍

1997年、ゴメス選手はドラゴンズに入団しました。この年、ドラゴンズの本拠地がナゴヤ球場からナゴヤドームに変わりました。多くの打者が広くなった球場に対応できず調子を落とす中、ゴメス選手は打率.315・31本塁打・81打点の好成績を残す打者となります。

1999年には、ゴメス選手は、前年にけがをした反省から7kg減量してシーズンに臨みます。そして、打率.297・36本塁打・109打点と活躍しました。ゴメス選手の活躍もあり、ドラゴンズは1988年以来11年ぶりのリーグ優勝を果たします。

翌年2000年には、ケガで離脱することもありましたが、打率.289・25本塁打・79打点の成績を残しました。本塁打と打点はチームトップの成績です。シーズン終了後、ゴメス選手は家庭の事情とけがを理由に退団します。

はち

ゴメス選手はドラゴンズ優勝の立役者の一人です!

退団翌年に再入団

2001年4月、ドラゴンズは新外国人選手を含め打撃が不振に陥ります。そこで、ゴメス選手に再度オファーをしました。4月に再来日すると、ドラゴンズファン500人が空港でゴメス選手を出迎えました。ゴメス選手は、右ひざの痛みに悩まされながらも打率.306・19本塁打・61打点の成績を残します。

2002年には、右ひざの治療のためシーズン途中で離脱し、そのままシーズンを終えます。シーズン終了後、ドラゴンズはゴメス選手と再契約しないことを発表します。そして、ゴメス選手は引退しました。

はち

怪我が無ければ、もっと活躍したかもしれませんね!

ゴメス選手がファンに愛された理由

陽気なゴメス選手

ゴメス選手は、チームメイトから「ゴメさん」「ゴメちゃん」と呼ばれチームに馴染んでいました。ゴメス選手からも、チームメイトに愛称をつけていたようです。さらに「陽気なプエルトリカン(プエルトリコ人)」の異名を持っていました。普段から明るく気さくな人柄で、チームメイトに限らずファンからも愛された選手でした。

ゴメス選手は、あるゲン担ぎをしていました。それは「好調な時はひげを伸ばす」というものです。実際に当時の写真や映像を見ると、ひげを伸ばしている姿とひげを剃っている姿が見られます。

一方で、宿敵であるジャイアンツ戦では、大きな声を出して悔しがり、闘志をむき出しにすることもありました。

はち

ドラゴンズを明るく盛り上げる貴重な選手でした。

チームに欠かせない四番バッター

ゴメス選手が在籍していたころのドラゴンズは、ピッチャーが豊富に揃っていました。一方で、バッターは他球団と比べるとパワー不足の面がありました。しかし、ゴメス選手の入団により、攻撃力が上がったのです。「強竜軍団」の名にふさわしいチームとなりました。

本拠地のナゴヤドームは広くてフェンスが高いため、ホームランが出にくいという特徴がありました。しかし、ゴメス選手は物ともせずホームランを量産したのです。140メートルの大ホームランを打ったこともあります。ドラゴンズを支える頼もしい四番バッターとして、なくてはならない存在でした。

はち

ゴメス選手は豪快なバッティングでドラゴンズを引っ張りました。

さいごに

ゴメス選手は、ドラゴンズの助っ人外国人の中でも記憶に残る選手といえます。それは、リーグ優勝に大きく貢献したことや、6年に渡りチームを支えてきた実績があるからです。また、陽気な人柄でチームを盛り上げてきた姿をファンも覚えているからです。

当時はバッターが打点を挙げ、投手が最少失点で抑えて「守り勝つ」のがドラゴンズの必勝パターンでした。もしパワーヒッターのゴメス選手がいなければ、ドラゴンズの1999年のリーグ優勝はなかったかもしれません。

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趣味は音楽鑑賞、新聞に掲載されているパズルを解くこと。身近なものから専門的な雑学まで幅広く執筆。